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第14回 ブルース・リーと忍者

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

香港 Garden of Stars に立つブルース・リー像と筆者

3月13日から15日まで香港を訪れた。それはブルース・リーの足跡をたどるためである。忍者とブルース・リーは関係があるのか、と思われるかもしれないが、世界でこれほどNinjaが認識されているのはブルース・リーのおかげであると言っていいほどであり、この点については後に述べたい。

ブルース・リー(李小龍)は広東演劇役者の父李海泉がアメリカ巡業中の1940年11月27日、サンフランシスコに生まれた。幼少の頃から映画に出演するとともに、イップ・マン(葉問)のもとで詠春拳を学んだ。18歳のときシアトルに移り住み、新聞配達のアルバイトをしながら高校の卒業資格を得、ワシントン大学哲学科に進学した。このときの古代中国思想研究がブルース・リーの人生哲学に大きな影響を与えている。在学中「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始め、同じ大学の医学生で道場の生徒だったリンダ・エメリーと結婚。その後、大学を中退して截拳道(ジークンドー)を創始した。

1966年、アメリカのTV『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢され、日系アメリカ人カトー役を演じて人気を博したことによりTVや映画に出演し、『ドラゴン危機一発(唐山大兄)』『ドラゴン怒りの鉄拳(精武門)』『ドラゴンへの道(猛龍過江)』といった作品に出演するも1973年7月20日に32歳の若さで亡くなった。遺作のハリウッド映画『燃えよドラゴン(龍爭虎鬥)』は伝説的作品となり、その後『死亡遊戯』も公開された。

ここでとりあげたいのは『燃えよドラゴン』で、英題は“Enter the Dragon”である。もとは違うタイトルだったが、龍としての中国がアメリカに登場するという意味を込めて、リーはこのタイトルにこだわったという。リーは辰年、辰の刻生まれである。ちなみに、1974年巨人軍のV10を阻止して20年ぶりのリーグ優勝を果たしたときに作られたドラゴンズの応援歌が「燃えよドラゴンズ!」である。

当時アメリカと中華人民共和国とは国交がなかったが、1972年2月、ニクソン大統領が電撃訪中し、アメリカでは中国に対する認識が大きく変化した。その時目にも留まらぬ速さでパンチやキックを繰り出す小柄な東洋人であるリーに、アメリカ人は度肝を抜かれた。そしてリーの発する「怪鳥音」とヌンチャクは人々の脳裏に深く刻み込まれた。

『燃えよドラゴン』公開から8年後の1981年、同じくハリウッド映画『燃えよNINJA(Enter the Ninja)』が公開され、フランコ・ネロ演じる白忍者と対決した黒忍者のショー・コスギは一躍ヒーローとなった。この忍者は日本刀や手裏剣とともにヌンチャクを用い、明らかに“Enter the Dragon”を意識した内容となっている。映画は大ヒットし、次作『ニンジャⅡ/修羅ノ章(Revenge of the Ninja)』をはじめ続々と忍者映画が制作され、アメリカで一大ニンジャブームが巻き起こった。そのことについて、ショー・コスギは次のように語っている。

日本の忍者映画は、市川雷蔵が主演した『忍びの者』以来、時代考証を重視して、主君である大名の意のままに動く秘密工作員であり、絶対に表に出てはなら
ず、命令されれば死も恐れず、親兄弟、仲間さえも非常に裏切っていく「殺しのプロ」という暗いイメージが流布している。だがそう暗くては一般大衆の人気を呼ばないし、ハリウッドではまず通用しない。ハリウッド映画はあくまで観客に明るく、楽しい夢を与える作品でなくてはないからだ。そこでニンジャが主役になるということは、当然、ニンジャが『スーパーマン』と同じように正義の味方であり、女子供に優しく、悪の巣窟に単身乗り込んで大活躍する、という設定でなければならないんだ。そんな工夫をしたからこそ、ボクの演じるニンジャが新しいスーパー・ヒーローとして映画ファンに広く受け入れられたんだ。

 映画がヒットした背景には、敗戦から立ち上がって世界一の経済大国となった日本に対しての関心が高まり、1979年には“Japan as Number One”という本が出版されてベストセラーになったということもある。

「以無法為有法 以無限為有限」。シアトルのリーの墓にも刻まれている言葉だが、柔軟性を有し、型にとらわれなかったからこそリーは大スターとなり、リーの存在があったからこそ世界にニンジャが広まったのである。

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