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第21回 忍者の火術
三重大学人文学部 教授 山田 雄司
「忍び」が登場する最も早い史料は、14世紀はじめの『太平記』で、夜の雨風にまぎれて逸物の忍びが石清水八幡宮に侵入して社殿に火をかけたという。また、『多門院日記』天文10年(1541)11月26日条によれば、伊賀衆が山城国笠置城に侵入し、坊舎に放火したりして小屋を焼き払い、攻め落としたという。
こうした記述からもわかるように、忍者は火術を得意とした。煮炊きや暖をとることから始まり戦いに至るまで、火は最も重要な道具として利用され、その扱い方によっては一国を存亡の危機にさらすことにもなる。忍術書には火術だけを扱ったものもあるほか、『万川集海』には200種類以上もの火器が記されているなど、火術に関する記述は非常に多い。
『軍法侍用集』巻第六「第七、窃盗火を持つ事」にはさまざまな場面で用いる火について記されている。
しのび火を持つ事肝要なり。野山を宿として敵地にては、人家に近づき、火をもとむる事なりがたし。其上味方を待つ合図などにも、けぶりを立てることあり。されば火を持つ事専なり。
忍者は小さい香炉に火を入れて、それを巾着に入れて持つようにとされており、いつでも火を使えるように準備し、さまざまな場面で火を用いた。しかし、何にでも火をつければいいというものではない。伊賀流忍者博物館所蔵『謀計須知』には、たとえ少しの利益があるとしても、相手方に火をつけるときは、神社仏閣を焼いてはいけないと書かれている。もしそうした信仰の場を燃やしてしまったのならば、味方の兵も敵の万民もそうした行為を行う主君に対して不信感を抱き、命令を聞かなくなるからだという。もしどうしても焼かなければならないときは、なぜ焼かなければならないのかその道理をよく言って聞かせ、望むままに元のように造営することを約束してから燃やさなければならないと説いている。
また、松本藩の忍者芥川氏に伝わる『甲賀流隠術極秘』には、次のような興味深い記事がある。
往昔義家公金沢城責めし時、服部源蔵と云う当流の者幸い小男なるにより、紙凧を大きく作り、夜に入り風烈しき時、源蔵彼の紙凧に乗り火を多く金沢城中に落し入れ、之を火急に焼討せし事あり、只今にては是を秘し、空中より火を降らし候と申唱えさせ置き候事なり、当流にては機に臨みし時は凧を作り、夫れに日の丸の如きものを作り、火をしかけ、空中にて開き、火降り候よういたし、敵へ落し候事あり、
源義家による奥州金沢城(秋田県横手市)攻め、すなわち1087年の後三年の役のときに、大風の吹く中、服部源蔵という小柄な芥川流の人物を紙鳶(凧)に乗せ、上から城中に火を落として焼き討ちしたという。そしてその術が芥川流に伝えられていて、凧に日の丸のようなものを作って火を仕掛け、空中で開いて火を敵城に降らせるのだという。この手法が実際に用いられたのかわからないが、こうした話から「ムササビの術」が考案されたものと思われる。
『万川集海』には、火器には第一にいかなる堅固な城郭や陣営でも放火焼失させることができるという利点があり、第二に昼夜にかかわらず味方身方に合図できるという利点があり、第三に風雨に消えない松明で味方の難を救うという利点があるとされている。そのため忍者はこれらをよく練習し、いつでも使用できるように心掛けておくようにと説かれている。当時最先端の技術であった火術を使うのがうまかったのが忍者だったのである。