ここから本文です。
第27回 各地の伊賀者
三重大学人文学部 教授 山田 雄司
現在日本各地には「伊賀」の名のつく場所がいくつも確認できる。そして、そのうちのいくつかは、実際に伊賀出身の人たちが住みついたことによるものである。徳島市伊賀町もその一つで、ここにはなぜ伊賀の名がついたのかわかる資料が残されている。
徳島大学附属図書館所蔵「成立書」によると、森脇・坂田・箕浦・大島・平井・梅岡の6家はもと伊賀国に居住していたが、織田信長による天正伊賀の乱の際に伊賀を逃れて離散し、のちに浜松の堀尾吉晴に召し抱えられたという。天正伊賀の乱によって伊賀を離れて周辺の武将に仕えるようになった伊賀者は多い。そして吉晴の子忠氏に従って関ヶ原の戦いにも参加したようで、忠氏が隠岐・出雲24万石を得て、月山富田城(がっさんとだじょう)さらには現在の松江に入ると、伊賀者はその城下に居を構えた。島根大学附属図書館所蔵「堀尾期松江城下町絵図」には、松江城南西の山すそに伊賀久八などの名前を確認することができる。この伊賀者は鉄砲隊で、40人いたようである。しかし、絵図に記される名前からは40人は確認できないので、「早道」とだけ記されて名前の書かれていない秘密情報の収集をしたと思われる人々も伊賀出身者だったのではないだろうか。このことについては、2018年7月6日の「中日新聞」紙面で紹介していただいた。
寛永10年(1633)堀尾家が三代で断絶すると、伊賀者は浪人となって新たな仕官先を探し、高松藩第4代藩主生駒高俊に仕える者もあった。生駒家の分限帳(ぶげんちょう)には、「伊賀組十八人」と記されている。高松藩に仕えるようになったのは、藩主の生駒家が藤堂家と深い関係にあったからだと思われる。高俊の父正俊の妻は藤堂高虎の養女円智院で、正俊が若くして亡くなり、息子の小法師(高俊)が若年だったため、高虎が後見役として西嶋八兵衛などの藤堂家家臣を藩政にあたらせた。そして、高虎没後は引き続き高次が後見役を務めた。自分たちは出自は伊賀であるとして、伊賀を支配する藤堂家とのつながりから伊賀者たちは高松藩に仕官を申し出たのではないだろうか。
そして、高松藩での仕官が認められたものの、寛永17年(1640)にお家騒動(生駒騒動)により生駒家が改易されると、伊賀者は再び浪人となってしまったのでさらに仕官先を求め、徳島藩第2代藩主蜂須賀忠英(はちすかただてる)に召し抱えられることになった。このとき、どれほど手柄があっても昇進させることはないという条件で、行列の先導などを務める徒士(かち)として採用されている。その理由は、「忍の達人故、高名手柄無際限」(「将卒役令」)ためだという。彼らは行列の先導だけでなく、御殿の警備や参覲交替の時の警護、またときには他藩の内情調査や犯人の探索などを行った。こうした「伊賀役」を命じられていたのは、堀尾、生駒を経て蜂須賀に仕官した者以外に、伊賀出身ではない者もおり、計13名ほどであったが、次第に数を減らしていった。豊後の大友宗麟の末裔で、伊賀に住みつき、蜂須賀家に仕えることになった小澤家も伊賀役を務めるが、代々、宍戸司箭(ししどしせん)家俊が開いた貫心流剣術師範であるなど、武芸に秀でていた。
彼らが居住したのは、徳島城南西に連なる眉山の山すそで、江戸時代には伊賀士丁と呼ばれ、昭和15年(1940)に伊賀町となった。現在伊賀町には、末裔かと思われる姓をもつ方も住まれているが、詳細はよくわからない。伊賀町にある墓地の中も歩いてみたが、関連ありそうな墓碑は探し出すことができなかった。各地に残る伊賀者の痕跡は今後も調査していきたい。
なお、調査にあたっては、徳島城博物館根津寿夫館長に大変お世話になった。ここに記して感謝したい。