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第28回 神君伊賀越えと勝軍地蔵
三重大学人文学部 教授 山田 雄司
天正10年(1582)6月2日、明智光秀が京都本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃し、信長が自害して果てるという本能寺の変が起きると、堺にいた徳川家康は急いで本拠地である岡崎に帰ろうとした。その際、東海道を通ったのではすぐに見つかってしまうため、あえて歩行困難な山中を越えていこうと、甲賀・伊賀の山中を通るルートを選んだ。これがいわゆる神君伊賀越えである。
家康は京都からやって来た茶屋四郎次郎に、河内国飯盛山付近で織田信長が没したことを知らされ、山城国宇治田原(現・京都府宇治田原町)、近江国甲賀小川(現・滋賀県甲賀市)、御斎峠、伊賀国柘植(現・三重県伊賀市)、加太峠、そして伊勢国白子(現・三重県鈴鹿市)で乗船し、三河国大浜(現・愛知県碧南市)に上陸して岡崎城(現・愛知県岡崎市)へ帰還したとされる。なお、このルートについては諸説あって意見の一致を見ていない。
家康に付き従っていた者はそれほど多くなく、道中で甲賀衆・伊賀衆に守られることによって無事帰ることができたことから、家康は伊勢路まで供をした者を直参に取り立て、途中鹿伏兎越までで引き返した者200人は尾張鳴海で召し出し同心に取り立てて、服部半蔵に付属させて江戸城の警備にあたらせ、甲賀者も直参・与力・同心として江戸城下に住まわせることになったという。
今回はその内容についての検討ではなく、伊賀越えの際に甲賀の多羅尾家から家康に渡されたという勝軍地蔵について紹介したい。『江戸名所図会』などに収載される「縁起」によると、この木像は行基が彫刻して阿倍内親王(孝謙天皇)に奉ったもので、内親王が宝祠を建てて安置し、家康が多羅尾光俊宅に泊まったとき、磯尾村の神証が同行してこの霊像を持し、無事三河に帰還することができたという。そして、家康出陣ごとに神証が勝軍地蔵の祈禱を行って勝利したことにより、堂宇を建立して祀ったのが東京・港区の愛宕神社だとする。
現在愛宕神社本殿には祭神として勝軍地蔵が祀られているとされるが、非公開なのでどのような状態かうかがい知ることができない。一方、愛宕山山下には遍照院(円福寺)・金剛院・普賢院・仙蔵院・華蔵院・鏡照院の愛宕権現六院があり、そのうち円福寺にも勝軍地蔵が安置されていた。円福寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、勝軍地蔵は真福寺に移されたが、関東大震災によって焼失したとされている。そして、鏡照院には写真の勝軍地蔵が伝来している。甲冑をまとい、馬にまたがる姿で、二童子を従え、厨子に入っていて携帯できる大きさである。また、彫りは非常に細かく丁寧である。
これら勝軍地蔵がどのような関係にあるのか、現在のところはっきりしないが、愛宕神社に勝軍地蔵が安置された際に、六院においてもその像が模刻されて安置されるようになったのであろうか。勝軍地蔵はいくさに勝つという名称から、戦勝祈願の対象として軍神として信仰され、とりわけ戦国時代には武将の間で崇拝された。また、愛宕神社の本地仏として祀られ、京都の愛宕山に祀られていた勝軍地蔵が有名である。江戸時代になると愛宕神社はいくさに勝つという信仰よりも、火伏せの神という側面が強くなって、庶民に至るまで信仰されるようになった。
神君伊賀越え自体、まだ謎に包まれている部分が数多くあり、この勝軍地蔵についても不明な点が少なからずあるが、今後さらに研究を深めていきたい。