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第34回 伊賀流二十四代東日教
三重大学人文学部 教授 山田 雄司
現代の忍者としてよく知られているのが甲賀流十四世藤田西湖だが、伊賀流はないのかというと、伊賀流二十四代を名乗った東日教という人物がいた。二人のことは、「昭和の忍術腕くらべ」『面白倶楽部』3-4(1950年)に書かれており、そこから東日教について紹介したい。
東日教(松本信男)は北海道利尻島出身で、伊賀流二十三代の忍術家東義人が乞食坊主のような姿で後継者を探し歩いていたところ、箱館に店を持っていた父親が養子として出したのだという。その後、日向吾平山、筑前秋月、播州書写山などで修行し、草の根、木の皮を噛み、樹下石上を宿として難行苦行を行ったという。そして、身延山を経て最後は千葉県の中山法華経寺奥之院に住し、昭和46年11月28日64歳で亡くなった。
取材に訪れた記者は、東日教が飛んでいるすずめの両翼に千枚通しを通して落とし、さらにそれを抜いたらすずめが再び飛んでいったり、真っ赤に焼けた鉄棒を手でしごいたりするのを目撃した。また師は火遁の術などの方法を述べた後、以下のことを語っている。
何しろ幼少の頃から跳躍の練習が積んでおるから身は軽い。爪先でトンと土を蹴ると先ず三間(5.45m)位は跳び上るナ。陸上競技の選手のように遠くから駆けて弾みをつけて跳ぶのとは違つて、その場で直線に跳躍するのじやから、どんな高い塀でもわけなく飛越せる。
また高いところから飛下ることも五十尺(15m)は常法となつている。このときは羽織や風呂敷などをひろげて落下傘の役に立てる。この前わしが身延で黒の法衣のまゝ松の梢から飛んで見せたら、まるで黒い揚羽の蝶が舞い降りるようだつたとある雑誌に書きおつたが、流石にうまい形容をしたものじや。
さらには、鉄砲玉をよける方法として畳立てという用害の術があり、実際畳を手で叩くと十五畳の広書院が畳の波となったという。また、東日教のご子息によると、掌に油をたたえてそれに灯心をさして火をともすほか、やはりさまざまな術を目にしたことがあるという。中山法華経寺奥之院やご子息に問い合わせても、師が所有していたという伝書類は行方不明であるため、果たして伊賀流忍術の系譜を引くのかどうか確かめることができないが、荒行によりさまざまな術を身につけていたことは確かであろう。
一昔前までは、伊賀流や甲賀流を名乗る忍術使いの人々が村をまわってきて、鉄棒を曲げたり、熱湯の中に手を入れたりして「忍術」を披露することがあった。これらの人々がどのような系譜をもっていたのかはわからない。近代社会において「忍術」が見世物として人気を博し、子どもたちをわくわくさせていったことも忍術の一側面である。
しかし、師はこうも語っている。
拙僧は如何にも伊賀流二十四代を嗣いではいるが一介の忍術使いではない。奇矯を売りものにしたり、宣伝の方便に用いようなどとももとより思つたことはない。従つて見世物芸人の手見せじみた試演などはお断りする。しかし、忍術は魔法ではない。神秘とも、奇蹟とも言えば言えるが、悉く合理的に説明できるもので、修業を積み、錬磨を重ねて、これが達人ともなれば、すなわち天與の人間力を遺憾なく完全に活用したということになるだろうナ。
忍術は決して摩訶不思議な術でなく、鍛練を積むことによってはじめて身につけることができる理にかなった術なのである。