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第36回 忍者百人衆その2‒四谷‒
三重大学人文学部 教授 山田 雄司
千駄ヶ谷を出発した忍者百人衆は、北上して四谷に向かった。臨済宗系単立寺院の瑞渓山祥山寺は、文禄4年(1595)麹町付近に創建され、寛永年間(1624-45)に当地へ移転したとされる。伊賀者の菩提寺で、境内にある地蔵は忍者地蔵と呼ばれ、伊賀者を供養するために建立されたとされる。
「神君伊賀越え」の際に徳川家康を守って無事岡崎まで帰還させ、その後の家康の戦いにおいて数々の功績を残した伊賀者は家康に取り立てられ、服部半蔵正成に率いられて家康の江戸入府の際に一緒に江戸に入った。このとき伊賀者は「御忠勤格別之者」であるため、江戸城近くに差し置く旨を命じられ、半蔵門付近から麹町あたりまで、北は田安門付近に集住して住居を構えた。
その後、半蔵門外に堀をつくることになり、伊賀者は屋敷を召し上げられて替地として四谷大通りの南北に屋敷を与えられた。それが「南伊賀町」「北伊賀町」と呼ばれる場所である。
17世紀中葉の寛文年間、また新たに堀が掘削されることとなり、31人の伊賀者が屋敷をとりあげられた。そこで、何かあったらすぐに将軍のもとへ馳せ参じることのできる「山之手筋」で知行地のあった赤坂一ツ木村の鮫河橋(さめがはし)の谷間の土地に屋敷を拝領した。それが鮫河橋谷町の伊賀者である。
そしてその近くに専称山安養院西念寺がある。ここは服部家菩提寺で、正成をはじめとした服部一族の墓がある。また、正成が守役を務め、切腹を余儀なくされた徳川家康の長男・信康のために正成が建てたとされる供養塔が現存する。信康切腹の際に正成は介錯を命じられたが、仕えていた主君に刃を向けることはできず、その後信康の冥福を祈るために仏門に入り、名を「西念」と号した。
西念寺は当初麹町の清水谷(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にあり、信康慰霊のために安養院を創建したことに始まる。正成は遠州以来奉持していた信康の遺髪をここに埋めたとされる。正成存命中は寺院建立は果たせず、没後に西念寺が建立された。そして、江戸城外郭拡張に伴う外濠新設のため、寛永11年(1634)現在地に移転された。正成は槍の名手であったため、徳川家康から拝領したと伝わる大鎗が現存している。
そうした服部半蔵正成の名前が付いているのが、江戸城西端の半蔵門である。服部半蔵がこの門前に住んでいたため半蔵門と呼ばれる。正成を組頭として与力30騎、伊賀同心200名が置かれ、江戸城麹町口門外には組屋敷が構えられ、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号)沿い一帯は旗本屋敷で固められていた。甲州街道は五街道のうち唯一江戸城の門と直接つながっており、有事の際に出陣できるよう、八王子千人同心、伊賀者・甲賀者などを甲州街道沿いに配置していた。太平洋戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものである。
門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍などが居住した。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所、宮中三殿、天皇が田植えをする水田などがある。天皇及び内廷皇族の皇居への出入りには、主に半蔵門が用いられる。
2019年の忍者百人衆は、本来は半蔵門からさらに歩いて大手門前を通って東京駅に行く予定だったが、あいにくの雨のため半蔵門駅から地下鉄に乗って上野で行われている忍者フェスタ会場に戻ることになった。雨風にもかかわらず勤務していた伊賀者の気力と体力を再認識した一日となった。