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第37回 忍者の修行
三重大学人文学部 教授 山田 雄司
忍者はどのような修行をしていたのか。このことについて、忍術書にはほとんど書かれていない。戦国時代では、山林での生業自体が修行となって、木に登ったり、一日中歩き回っても平気な肉体がつくられたのだろう。実際伊賀には「木猿」と呼ばれた人がいたので、猿のように木から木へ渡っていくようなことができたのだろう。
松本藩の忍び芥川家に伝わった『甲賀隠術極秘』には修行について以下の記述がある。
先修行の第一は、儒書、軍書等も数多読之、何事も博く学ひ、山野を歩行し、寒暑を不厭して、夜道をなし、深夜にも高山に登り、厳寒とても幽谷に下り、暑中といへとも怠りなく身をこらしむるを修行の第一とす、
修行の第一は読書で、何事も広く学び、寒暑昼夜に関わりなく高山や幽谷を歩き、意志堅固であることが重要だとしている。
そして、具体的な修行について初めて書いたと思われるのが、佐久間長敬(おさひろ)である。佐久間は代々江戸町奉行与力の家系で、町奉行の職官さらには司法省判事を勤め、「忍術と狐使ひの沿革」(『神経学雑誌』16-7、1917年)で修行について述べている。
先づ第一に忍術を学びまする者は心掛が大事である、どう云ふ風な心掛けをして行くか、大食を致しませぬ、それから酒を飲まない、又情慾の念を離れる、衣類を沢山著ない、それから山住ひをすることを専らに致します、又断食に慣れる、湯水を飲まずして堪へることを覚える、是が皆必要なのであります、
(中略)
第二には心理状態のことになります、恐るべきものを恐れない、物を見て恐るべきことも恐れないと同時に、事に臨んでも動揺しない、心を静め膽を練つて行く、それは皆実物に当つて修行して行く、
(中略)
其所で初めの修行はどう云ふ風にして行くかと云ふと、是は其初めは三尺飛越えて、漸次に三尺を四尺にし今度は六尺にする、遂には三間位は飛越すやうになる、三尺位は我々でも飛べるが、それが四尺五尺になると云ふとなかなか飛べない、それを段々慣して行きますると云ふと、終には二間でも三間でも飛んで行けるやうになる、尤も遠くから走つて来れば飛び越えることが出来まするけれども、ぢつとして居つてひらりと飛び越えると云ふには、熟練しないと出来ない、初めはそれを平地でやつて、今度は高い所へ行く、さうして此所から向ふへ飛越えると云ふ風になつて来る、二尺や三尺の高さの所では命に別状ありませぬが、一丈二丈となると落ちると腰がぬけるとか、飛んだ怪我をするが、落著があるから落ちない、二尺や三尺の高さならば何でもないが、一丈二丈の高さになると心が怖けて飛べない、恐怖心があるから飛べない、落著いて居れば一丈あらうが二丈あらうが同じことである、斯う云ふ風にして慣して行く、慣れて来ましたら例へ溝があらうが何があらうが、何でもなく平地を行くが如くはつと向ふへ飛んで仕舞ふ、それから又物の上を飛越えて行くこと、是も同じく始まりは低い物を飛んで行く、段々慣れるとテーブルの上も飛び越える、追て高い物を飛び越して行くと云ふやうに、是も斯う云ふ風に修業致します、
さらには飛び降りる練習、水中を潜る練習、歩き方の練習などについて書いている。佐久間はどのようにしてこのような内容を知り得たのかわからないが、「徳川時代のいろいろなことを研究」して書いていることから、幕末には現在につながるような修行が行われていたのだろう。