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巻の十 「ちゃんばら」は可能か―「泗水遊俠伝」―
三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希
忍者と博徒
私は、博士(文学)学位申請論文(俗にいう「博士論文」)で、徳川時代の博徒に関する諸論文も所収しています。博徒! そう、あの博徒です。私は、忍者も博徒も研究しているのですが、一般的にはあまり研究されていない対象です。どうやら私は、かわったものに手を出してしまう性分のようです。
さて、その忍者と博徒は、映画などでは、どちらも真剣を抜いて「ちゃんちゃんばらばら」と斬り合いますが、はたして、そのようなことができたのでしょうか。刀を抜いての白兵戦をやりあった際の感覚を記した史料は、さほど多くはありません。想像するしかないのでしょうか。
高尾善兵衛、堀文次、渋沢栄一
ここで「巻の一」の文中で紹介した、高尾家の高尾善兵衛の話をいたしましょう。彼を「私の一族」と紹介いたしましたが、私と高尾善兵衛とのくわしい家系的な関わりや人間関係については、いろいろあるのですが、省略させていただきます。一言でいえば「私を遡ること、事実上の5代目の先祖」といってよい存在で、血縁的なつながりもある人物です。
高尾善兵衛は、伊勢国にその名を響かせた、伊勢国四日市宿北条町における幕末以来の博徒でした。「所名」(ところな)として「北条(きたじょ)の善兵衛」又の名を「鬼の善兵衛」と称していました。「所名」は縄張りを冠した博徒としての名前、「鬼」は彼の性格に由来してのことでしょう(明治後は性格がまるくなって「仏の善兵衛」と呼ばれたといいます)。
私が三重大学に職を得てから、なぜか渋沢栄一記念財団から執筆の依頼がきて、同財団が発行している『青淵』(せいえん)という雑誌に、善兵衛のことについて寄稿しました。「青淵」というのは、渋沢栄一の号です。2021年の大河ドラマの主人公です。
その渋沢栄一の薫陶をうけた、東京市養育院の堀文次というひとがいて、三重県の郷土史家でもありました。彼が善兵衛のことを書いています。その関連の話題は『青淵』の文章にふさわしいと思いました。
彼が有名になったのは、講談や映画でよく知られるようになった「荒神山の出入り」(正しい名前は「高神山」ですが)に“参加”していたからです。「清水の次郎長」方の「神戸の長吉」と「黒駒の勝蔵」方の「穴太徳」が戦った四日市宿近くの喧嘩で、まあ、言ってしまえば、賭場の縄張り争いに端を発した代理戦争でした。
善兵衛は「穴太徳の子分」の「桑名の源太郎」の兄弟分であった関わりで、喧嘩に赴いたというのです。しかし、時間に遅れて行ったので、もう手が出せません。“参加”というも名ばかり、木に登ってみているしかなかった、といいます。「穴太徳」側が崩れ落ちるのをみて、いっしょにどすを担いで逃げ出したのだそうです。時に慶応2年(1866)、彼が22歳のときでした。
善兵衛にとっては、それは数ある喧嘩のひとつであったかもしれませんが、後に「清水の次郎長」の関連で、有名な喧嘩となりました。善兵衛は長命して昭和まで生き、荒神山の生き残りとして話題になりました。前述の堀は、当時91歳の老翁となっていた善兵衛を訪れ、その遺談を『荒神山物語』(鈴鹿市文化協会、1963)という書籍にまとめたのです。
真剣勝負とは?
さて「荒神山の出入り」もほかの喧嘩も、真剣勝負であるにほかなりません。当時はもちろん輸血装置もなし、真剣でやられたら血がたくさん出て、どうにもなりません。
善兵衛は、どういうつもりなのか、昭和初期に流行っていた荒神山を扱った映画を、実際に観ていたようなのです。
彼によると、真剣勝負とは、敵と自分で十歩ほど離れて、真剣を抜いて「えいえい」と気合いを入れつつ、相手の出方を窺い、だんだん近づいて「がちん」でオワリ、それが実態なのだ、といいます。高尾家に伝わっている話です。それはそうでしょうね、刀をぶんぶん振り回しての大立ち回りなんて、できるわけがありません。忍者も博徒も、馬鹿じゃないのですから。善兵衛も映画を観て「あんなふうにはいかないよ」と言ったのだそうです。
私の名前と3文字(高・尾・善)同じ、高尾善兵衛による秘話です。子孫が忍者や博徒の研究をするようになったと知れば、泉下の善兵衛、どのような顔をするのでしょうか。ちなみに、題名の「泗水」とは四日市のことです。