Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の二十八 伊賀者争議

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希 

雇用の悲哀

 漱石ではありませんが、私は、ぼんやりとした性格で、昔から損ばかりしています。博物館の学芸員であったとき、上司の提案を褒めて、職場で大笑いされたことがあります。部下が上司を褒めることなど、あり得ないからです。そのときは、笑いものにされただけで、おおごとにはなりませんでしたけれども、やはり、ダメ人間の烙印を押されて、職場から追放される憂き目に遭いました。

 そのために、三重大学に就職することになるのだから、「禍福は糾える縄の如し」というように、何が幸運なのか、結果が出るまではわかりません。

 ともあれ、職場から追放されました。私だけではありません。同僚の学芸員も追放されました。ふたりで労働争議をおこすため、労働組合に入り、組織とたたかうことにしました。労働争議といえば、憲法で保障されている権利ですが、教科書や新聞でみるだけで、まさか自分でやるようになるとは、思いませんでした。しかし、よい社会学習になりました。組合の書記長から「ピクニックに行くようなつもりで、参加してください」と言われて、もちろん、自分自身のことなのですが、そのようなものかと思い、気軽に交渉の席に出ました。それに対して、当然、訴えられた上司は、交渉の場でうろたえており、職場でみる上司ではありませんでした。そもそも、人間は、場や空気がつくりだすものなのだ、と感じました。

「誰の家臣か」問題

 慶長10年(1605)、服部半蔵正就(服部半蔵正成の子)が、配下の伊賀者たちから、現代風にいえば、ストライキをおこされる、という事件がおこりました。

 これは「台徳院殿御実紀」(二代将軍徳川秀忠の伝記、いわゆる『徳川実紀』の一部)に記されている事件で、結果として、半蔵正就は徳川幕府より改易に処されました。伊賀者たちによれば、──半蔵正就は、自分たちに「慈愛」を加えるべきを、自分たちを「奴僕にひとしく」使役し、「家作造営」の手伝いまでさせた、命に背いた者は俸禄をとめた、などと不満を述べています。

 半蔵正就は、徳川家の家臣です。しかし、伊賀者たちも同様に、徳川家の家臣です。身分の差こそあれ、徳川家の家臣であるという点では、両者は同等なのです。たまたま、服部家の手に伊賀者たちが付いたということにすぎません。

 寄親・寄子といって、同じ家臣団の中でも、軍団の指示系統によって、「親」と「子」に分かれて動くことは多々あります。上司と部下ということです。それが、「親」が独立した大名などに取り立てられた場合、「子」が「親」の家臣に編入される、ということもあります。しかし、そのあたりは微妙な問題で、家臣になったり、ならなかったりします。これがトラブルのもとになります。

 その微妙な問題の一例として、徳川家の横須賀組の子孫たちの例があります。彼らの先祖は、徳川家康により、紀州徳川家の家老である安藤直次の附属となりました。この場合、安藤の家臣ではありません。あくまで、紀州徳川家の家臣です。安政2年(1855)、彼らは安藤家の家臣になるよう命じられました。これでは、①将軍家―②紀州徳川家―③田辺安藤家―④横須賀組与力というように、将軍家からすれば、「家臣の家臣の家臣」にまで落ちてしまいます。

 彼らは脱藩して、直接、紀州藩徳川家の家臣となることを願い出ました。徳川家直接の家臣であった由緒を言い立てたのです。文久3年(1863)、家禄は半減されたものの、紀州藩徳川家の家臣となることが許されました。現在、彼らの屋敷跡は、三重県の松坂城下にあり、御城番屋敷跡として、国の重要文化財となり、観光名所ともなっています。

 ……このように、「誰の家臣か」問題は、実に難しい問題でして、波乱含みです。半蔵正就の事件にしても、半蔵正就が伊賀者たちのことを「自分の家臣だ」と思わず錯覚したことによっておこったものでしょう。

 上司から首をきられた私は、このような組織問題に対して、関心を持たざるを得ませんでした。私の下級武士論・忍者史研究のきっかけは、このようなところから来ています。

松坂城の御城番屋敷跡

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