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巻の三十 昔のひとの体事情
三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希
昔のひとの強さ
忍者といえば、創作では、超人として描かれることがよくあります。ですから、本稿の話題は、「昔のひとの体事情」とでもいたしましょう。
以前、東京の古文書講座に来ていただいたあるおじいさんは、もう百に届こうか、というお歳で、戦争中は軍人で、原爆投下直後の長崎に軍刀吊るして入った、と仰っていました。そのおじいさんが、「村から徴兵されてきたひとは強かったね、俵担いで走るんだから、驚きましたよ」と言っていました。昔のひとが俵を複数担いで歩く写真も残されていますが、俵は三斗五升入り、だいたい六十キロぐらいでしょうか、十五歳ほどになれば、この俵を担いで歩くことが、成人の証でした。村育ちの兵隊と町育ちの兵隊では違ったようです。日本軍の驚異的な体力は、村で培われたものであったといえるでしょう。
世界から武士にあこがれて来日される方も多いわけですが、彼らに私が武士ではなくて百姓の体力についての話をすると、彼らは格好よい武士を好んでいるわけですから、ちょっと怪訝な顔をされるわけです。
食べる
そのような体力は食べ物の栄養の賜物です。現代人からみれば、昔のひとは、何を食べても堅固のような気がします。江戸市中のむきみ売りなどは、夏場であればいたんでいると思いますけれども、食べても腹を壊さないでしょう。なぜかというと、……昔は悪い菌に取り巻かれて暮らしているものですから、子どもの死亡率が高く、宗門人別帳をみるとすぐにそれがわかります。しかし、成人すれば、かえって強い抗体が体の中にあるとみえて、癌などで死去するまで、つまり、六十や七十まで、平気で生きることができる……というわけです。そういえば、明治生まれの私の曾祖母なども、カビが生えた食パンなどを、平気で食べていました。
昔のひとは量を多く食べていたので、武士の扶持「一人扶持」でも、一日五合計算でした。五合といえば食べ過ぎのような気がしますが、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」にも「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とありますから、このくらいは普通であったのでしょう。
歩く
いまでも体力自慢の方で、東海道を自分の足で歩く、ということを試される方はいらっしゃいます。そんな方でも、歩き通した頃にはくたくたです。昔の一般的なひとにさえも、かなわないかもしれません。
というのは、女性の足でも「一日十二里」(47キロ)は歩いたといいますし(篠田鉱造『幕末明治女百話』岩波文庫「練馬の沢庵に一銭雪隠」)、男性の足でも「一日に十七、八里」(18里、70キロ)は歩いたともいいます(山川菊栄『わが住む村』岩波文庫「雲助の東海道」)。20里を歩いた、という例さえあったようです。この体力を一日だけ発揮すればいいというわけではなく、道中ですから、このペースを何日も維持し続けなければなりません。ちなみに、私の知人で普通の健康男性の方(40代)が、会社の特別長期休暇を利用して、昔のひとと同じように、東海道を歩き通したのだそうです。すると、箱根を下るあたり、―下るときに膝を悪くしたのでしょう―、足がガタガタ、足を引きずりながら、接骨院に寄りながら、総計22日で歩き通しました。ちなみに、『東海道中膝栗毛』の弥次・喜多が、江戸から伊勢まで12日をかけていますから、古人の健脚恐るべし、でしょう。
歩き方でいうと、忍者はナンバ歩き・ナンバ走り(右手と右足、左手と左足が同時に出る歩き方・走り方)をしたのか? というご質問をよくいただきます。ですが、昔の一般的なひとも、ナンバなどはしないでしょう。武士は刀などが邪魔をして自然にナンバ歩きになるのだ、と解説される方もいますが、私は疑っています。もちろん、膝を手に置いて歩く所作は、殿中においてありますし、手や肩と足が同時に出る動きは、武術や相撲、踊りなどにもみることができます。しかし、それらをナンバと結びつけるのは、強引ですし、誤解が大きいでしょう。
※文中の「百姓」は、徳川時代の身分呼称のひとつで、蔑称ではありません。