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巻の三十一 道具と日本人
三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希
時計を返した織田信長
ここでは、道具と日本人との関係について考えてみたいと思います。ここでいう「道具」とは、日常生活道具のこととします。現在の我々にとっての道具は、スマートフォン・パソコン・テレビなど、きわめて高度なものにあふれています。私のいとこが理工系の大学教員をしていますが、テレビ一台の技術は精緻で、たとえ優秀な技術者であっても、ひとりだけでその構造全てを理解することは難しいのだそうです。高度産業社会の宿命でしょう。
昔の人びとにとっての道具は、そうではありませんでした。たとえば、茶碗にしても、草鞋にしても、自在鉤にしても、自分が作ることができる道具にせよ、そうでないにせよ、構造まで理解できないという道具は、そうありませんでした。
たとえば、ルイス・フロイスの文章によると、フロイスが織田信長に西洋時計を献上したところ、喜ばず、その時計をフロイスに返した、といいます。その理由は、もし時計が壊れた場合、修理する技術がないから、であるそうです(ルイス・フロイス『日本史4』平凡社東洋文庫)。これは、信長が合理性を尊ぶ聡明な人物であったことをうかがわせる逸話ではありますが、当時のほかの日本人もまた、信長同様に、そう考えたかもしれません。火縄銃が伝わって広まるには、火縄銃自体が渡来するだけでは不十分で、日本人自らが技術を習得する必要があります。軍事技術を尊ぶ戦国時代は、そうしたことが早く普及しました。道具の普及には、それを製造する知識と技術も必要です。
明治時代からわからなくなった道具
いっぽう、道具と日本人の距離が遠くなった時代は、明治時代からです。世界史的な高度産業社会の仲間入りを果たした時代でした。当時の日本人の焦燥感は、我々の想像の埒外(らちがい)でしょう。
それで、蒸気機関車をみたひとは、人力車に七輪をつけて車が走るのかどうかを観察したりしましたし、電信機をみたひとは、電信柱に敷設されている電線に手紙を結い付けたりしました。
蒸気機関や電信機などの存在や技術の内容は、徳川時代の蘭学者などは、ペリー来航以前から知っていましたけれども、一般の人びとには理解できませんでしたから、人力車に七輪をつけたのも無理からぬことでした。
それは一見、我々にとって噴飯ものの行為にもみえるかもしれません。しかし、スマートフォン・パソコン・テレビなど、構造がすこしも理解できないで涼しい顔をしてそれらを使っている我々は、彼らを嗤(わら)える立場にあるでしょうか。時計を返した信長が我々をみたら、故障したらどうするのか、よく使い続けることよと、むしろ驚くことでしょう。
忍者と忍具
さて、忍術書には、忍びの道具として忍器というものが記されています。忍術書の中で特に量が豊富で代表的なものは『万川集海』です。同書には、忍器として、水器・登器・開器・火器の4種が紹介されています。水器は水を渡る道具、登器は登るための道具、開器は扉や塀を開けるための道具、火器は火をつけるための道具で、忍者としての任務を遂行するために、必要なものばかりです。
これらの道具は、ひとつとして、不思議な道具はなく、素朴な構造のものばかりです。忍器の中には、作るのが面倒そうなものも少なくありませんが、構造まで理解できないというものはありません。忍術といえば、フィクションでは、魔術のようなものばかり出てきますが、史実ではそうではありません。しかも、忍器の中には、民間でふつうにみられる日常道具と重なっているものもみられます。三重大学人文学部では、2022年度のオープンキャンパスで、「モノから考える昔の社会―日常の道具から忍者の武器まで―」という展示を開催しました。民間の日常道具と忍者の道具とを展示して、昔の日本人と道具との近さを感じてもらいたかったからです。
ひとが道具をどのように感じるかは、時代によって異なっていたでしょう。それによって、我々はどのような人間なのかを知ることができます。