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巻の三十二 人間の社会、タテ・ヨコ考
三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希
社会のタテとヨコ
私は社会学や文化人類学をしっかり修めてはいませんが、人間の社会にはタテの連携とヨコの連携があると思っています。タテの連携というのは、立場や身分の上下関係を重視する傾向のある社会、ヨコの連携というのは、上下の関係が弱くて平等的傾向のある社会です。この組織がタテの連携で、あの組織がヨコの連携であるなど、一概に断言できるとは限りません。どこの組織にも、何れかの要素が部分的に存在している、とみることができるからです。しかし、「この組織はどちらの要素が強い」などと、議論することはできそうです。
ありふれているタテ
私も公務員生活11年を経ていますから、特に役所の特徴を考えます。役所は表向きも裏向きも上意下達で、言路洞開ということはなく、上役の言うことをよく聞く文化があります。前述のタテの連携の要素が強い社会といえるでしょう。それに影響されて、民間における会社組織も、そういうところが少なくないかもしれません。
役所の稟議は、当然ですが、上役の判をいただかなければ具体的には何も動きませんから、私も仲の悪い上役に通せんぼされて、往生したことがあります。
昭和の軍隊や、徳川幕府や藩などもそうです。徳川時代の身分制が厳しかったことは、ご存じの通りです。幕府内では大老に対しては最敬礼、老中は若年寄にたいへん敬われました。旗本の中にも、先輩から後輩に対するいじめのようなことがあり、登城する際に江戸城の鯱をみると、気分を悪くしてしまう役人もいたそうです。そういう役人は病気を理由に登城しなくなります。そういうのを「鯱病(しゃちびょう)」と言っていて、将軍も新入りの役人の姿がみえなくなると「誰鯱病を発したか」と言っていたといいます。PTSDの症状ですね(以上の逸話、柴田宵曲編『幕末武家の回想録』KADOKAWA「大奥秘記」)。
一揆や党というヨコ
それらに対して、労働組合に入って運動すると、そのような人間関係はがらりと変わります。ヨコの連携の強い社会でしょう。私も労働組合に駆け込んで、組織と対峙した経験があり、彼らの存在には心強かったものです。日本史の中には、一揆や党というヨコの連携の歴史があります。
一揆には、よくご存じの百姓一揆・農民一揆から、地侍・国衆の有力武士団同士の一揆もあります。「一揆」はもともとヨコの連携をさす言葉です。伊賀地域の歴史にとっても、忍者の歴史にとっても、伊賀国惣国一揆の歴史は、強く記憶されていいことかもしれません。村の中でも上層部、地侍層中心の一揆ですが、その中においてはヨコの連携が意識されていました。
一方、「党」という言葉の使用例についても、みてみましょう。「党」は徒党のイメージがあり、体制をラディカルにひっくり返すという過激なニュアンスがありました。だから、Partyの翻訳として「党」と使おうとすると、困ったことになるのです。日本初の政党とされるのは「愛国公党」ですが、「従来徒党といふ名は謀叛を意味して不穏に聞えたるものなれば特に愛国の二字を冠せり」と言います(『明治事物起源』)。明治時代に「立憲……党」の党名が多いことも、これと同じ事情で、これには「天皇制の体制内で行政に批判をする」というニュアンスがあります。戦前まで、「党」という言葉に違和感をもたれたということは、間違いないようで、昭和2年(1927)の立憲民政党が結成されたときも、単に「民政党」という党名にする案もありましたが、これでは不穏当という理由で、結局、前述の党名となりました。また、政党政治に理解のあった伊藤博文も、自らが入党する際は「党」の字を嫌い、「立憲政友会」という党名の党に入りました。
このように、ヨコの連携の歴史も、たしかに日本史には存在していました。しかし、さほど注目はされず、近代を迎えました。昨今は、働く場がばらばらな非正規雇用が多く、労働組合の組織率も低いのが現状ですから、ヨコの連携の可能性についても、考えてみる必要がありそうです。